1867年07月陸奥国弘前に生まれた菊池が時事新報社に入ったのは、1887年04月の慶應義塾別科卒業と同時であった。先にも触れたようにこの年は中上川と高橋の退社という『時事新報』創刊以来の大きな異動があり、福沢としても社説記者の補強に迫られていたのである。
福沢が菊池に最初に言及したのは翌1888年02月27日付中上川宛書簡であった。そこには「唯今社説を認候者は渡辺一人のみなれども、菊池は甚だ宜しく、必ずものに可相候、恃み居候」とある。さらに中上川宛書簡には、「菊池武徳は有望の少年、頻りに勉強致居候。是れは必ず高橋義雄の身代りに可相成存候」(1888-05-31)と高い評価が示されているが、前にも書いたように同年10月の石河と渡辺によるクーデタ騒動に巻き込まれてしまった。三體牛鞭
とはいえ首謀者ではなかったためであろう、事態収拾後も菊池への高い評価は変わることはなかった。翌年の中上川宛書簡では、「菊池は中々宜敷、高橋の次ぎ、渡辺石河の右に出る者なり」(1889-06-21)と、早くも石河以上のお気に入りとなっている。またインフルエンザにかかった福沢から中上川に宛てられた1891年01月07日付書簡には、「新聞紙の論説も石河菊池等を枕辺に招き寝ながら立案の筋を談ずるに過ぎず」とあり、この時期の福沢以外の起筆者がこの両名であったことが改めて確認できる。
福沢の書簡でたどれるのはここまでであるが、菊池の『時事新報』での働きぶりを推測できる資料として「時事新報社員賞与記録」(現行版第21巻所収)がある。1890年から1896年までが残されており、それによると菊池の賞与(ボーナス)は1890年06月から1891年06月までの一年間に三回支給の記録があり、1891年12月と1892年06月にはその名が見えない。そして1892年12月から1894年12月まで5回支給となっていて、以下は記載されていない。その間の序列は常雇の社員約20名中の6番目位であった。この記録から分かることは菊池は1891年後半から1892年前半にかけて一時時事新報社を離れていたということと、1894年末に退社したということである。
この中断期間については、波多野承五郎とともに経営が傾いていた『朝野新聞』の建て直しに協力していたらしい(丸山信編『福沢諭吉門下』133頁)。当時『朝野新聞』では1890年に慶應義塾を卒業したばかりの永島永洲が再建に孤軍奮闘しており、同窓生の苦境を見捨ててはおけなかったのだろう。その永島も1893年06月に『朝野新聞』が廃刊された後の1896年には『時事新報』に移った。後年には社会部長となるのであるが、かたわら少年冒険小説を書いてその大家ともなった。
いっぽう1894年に退社した菊池は九州に移って筑豊鉄道の経営に携わり、さらに1904年には政友会から出馬して代議士となった。1912年12月の第三次桂太郎藩閥内閣に反対して盛り上がった第一次護憲運動のスローガン「憲政擁護」は彼の発案だったという。戦時中は郷里の弘前に疎開し、1946年02月11日に80歳で没した。