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菊池武徳は有望の少年

2009 年 9 月 21 日 月曜日

1867年07月陸奥国弘前に生まれた菊池が時事新報社に入ったのは、1887年04月の慶應義塾別科卒業と同時であった。先にも触れたようにこの年は中上川と高橋の退社という『時事新報』創刊以来の大きな異動があり、福沢としても社説記者の補強に迫られていたのである。

福沢が菊池に最初に言及したのは翌1888年02月27日付中上川宛書簡であった。そこには「唯今社説を認候者は渡辺一人のみなれども、菊池は甚だ宜しく、必ずものに可相候、恃み居候」とある。さらに中上川宛書簡には、「菊池武徳は有望の少年、頻りに勉強致居候。是れは必ず高橋義雄の身代りに可相成存候」(1888-05-31)と高い評価が示されているが、前にも書いたように同年10月の石河と渡辺によるクーデタ騒動に巻き込まれてしまった。三體牛鞭

とはいえ首謀者ではなかったためであろう、事態収拾後も菊池への高い評価は変わることはなかった。翌年の中上川宛書簡では、「菊池は中々宜敷、高橋の次ぎ、渡辺石河の右に出る者なり」(1889-06-21)と、早くも石河以上のお気に入りとなっている。またインフルエンザにかかった福沢から中上川に宛てられた1891年01月07日付書簡には、「新聞紙の論説も石河菊池等を枕辺に招き寝ながら立案の筋を談ずるに過ぎず」とあり、この時期の福沢以外の起筆者がこの両名であったことが改めて確認できる。

福沢の書簡でたどれるのはここまでであるが、菊池の『時事新報』での働きぶりを推測できる資料として「時事新報社員賞与記録」(現行版第21巻所収)がある。1890年から1896年までが残されており、それによると菊池の賞与(ボーナス)は1890年06月から1891年06月までの一年間に三回支給の記録があり、1891年12月と1892年06月にはその名が見えない。そして1892年12月から1894年12月まで5回支給となっていて、以下は記載されていない。その間の序列は常雇の社員約20名中の6番目位であった。この記録から分かることは菊池は1891年後半から1892年前半にかけて一時時事新報社を離れていたということと、1894年末に退社したということである。

この中断期間については、波多野承五郎とともに経営が傾いていた『朝野新聞』の建て直しに協力していたらしい(丸山信編『福沢諭吉門下』133頁)。当時『朝野新聞』では1890年に慶應義塾を卒業したばかりの永島永洲が再建に孤軍奮闘しており、同窓生の苦境を見捨ててはおけなかったのだろう。その永島も1893年06月に『朝野新聞』が廃刊された後の1896年には『時事新報』に移った。後年には社会部長となるのであるが、かたわら少年冒険小説を書いてその大家ともなった。

いっぽう1894年に退社した菊池は九州に移って筑豊鉄道の経営に携わり、さらに1904年には政友会から出馬して代議士となった。1912年12月の第三次桂太郎藩閥内閣に反対して盛り上がった第一次護憲運動のスローガン「憲政擁護」は彼の発案だったという。戦時中は郷里の弘前に疎開し、1946年02月11日に80歳で没した。

北海道

2009 年 9 月 17 日 木曜日

この島の先住民であるアイヌの言葉(アイヌ語)では「アイヌモシリ」(Ainu mosir, 「人間の住む土地」の意)と呼ばれる。日本人(和人)は近代に至るまでアイヌを蝦夷(えぞ)、その土地を蝦夷地(えぞち)もしくは北州、十州島などと呼んでいたが、明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討し、蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出、「北加伊(きたかい)道」「海北道」「海東道」「日高見(ひたかみ)道」「東北道」「千島道」の6案を提示した。結局「北加伊道」を基本として採用し、海北道との折衷案として、また、律令制時代の五畿七道の東海道、南海道、西海道の呼称に倣う形として「北海道」と命名された。なお、松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明しているが、言語学者の金田一京助は、当時のそのような事実を示す証拠は見つかっていないと唱えている。

北海道は地方自治法において他の都府県と同格の普通地方公共団体の1つとされているが、「都」「府」「県」はこれを外して「東京」「愛知」のように表記呼称することがあるのに対し、北海道については「道」を外して単に「北海」と表記呼称することは非常に稀である(北海タイムス、北海学園大学など、社名や学校名等の固有名詞の一部分に使用される例はある)。一方、道である普通地方公共団体は北海道しか存在しないため(東京都の「都」と同様に)、逆に道が「道産米」等、事実上北海道を唯一的に指し示す語彙(形態素)として広く普及している。

北海道地図後述の通り、1886年から1947年まで北海道を管轄した地方行政官庁は北海道庁であった。この場合、「北海道」は単なる地域呼称であって、「北海道庁」が「東京府」や「青森県」などと並んで置かれた官庁の名である(樺太と樺太庁の関係に同じ)。この「北海道庁」は、現在用いられているような地方自治体の中央官庁ではない。1901年に北海道会法および北海道地方費法が公布施行されて「北海道会」という議会を持つ地方自治体となったが、自治体としては「北海道地方費」と呼ばれた。戦後、1946年の第1次地方制度改革で市制町村制東京都制とともに府県制が改正されたとき、北海道会法と北海道地方費法が廃止されて道府県制に統合された。改正法律の附則の規定により従来「北海道地方費」と呼ばれていた自治体を「道」と呼ぶこととされた。地方行政官庁としての北海道庁は1947年の地方自治法施行により「北海道庁官制」とともに廃止され、同法に基づく普通地方公共団体としての北海道となった。

地方公共団体としての北海道
地方公共団体としての北海道は、北海道本島の他、利尻島、礼文島、奥尻島、天売島、焼尻島、渡島大島、渡島小島等の属島をその領域に含む。択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島も北海道の領域の一部だが、1945年にソビエト連邦が占領し、現在も同国の後継国家であるロシア連邦の実効支配下に置かれており、現在、日本の施政権が及んでいない(北方領土問題を参照)。

北海道には180の市町村(35市130町15村)、64の郡がある(この他、北方領土に5郡6村がある)。北海道では、森町が「まち」である以外は、町は全て「ちょう」、村は全て「むら」と読む。

地理
北海道(本島)
面積 77,981.87km2
最高標高 2,290m
所属国地域 日本

2001年5月30日地球観測衛星Terra搭載のMODISセンサにより撮影島としての北海道は、面積77,981.87 km2(日本では本州に次いで2番目、世界では21番目に大きな島)。アイルランド島よりやや小さく、樺太よりやや大きい。南の本州とは津軽海峡で隔てられているが、青函トンネルにより鉄路で繋がれている。北は宗谷海峡を隔てて樺太と向かい合い、東には千島列島が連なり、間接的にではあるがロシアと国境を隔てている。西の日本海、南東の太平洋、北東のオホーツク海と、3つの海に囲まれており、周辺には対馬暖流とその分枝である津軽暖流宗谷暖流、及び親潮と東樺太海流が流れている。

北海道は大きく分けて胴体部にあたる菱形の部分と、南西の半島部(渡島半島)よりなる。

胴体部は南北に蝦夷山系と呼ばれる山地群が貫き北海道の脊梁を成している。蝦夷山系は南の日高山脈に始まり、東の石狩山地北見山地と、西の夕張山地天塩山地に分岐しており、この二列の間には富良野盆地上川盆地名寄盆地等の盆地列が形成されている。頓別平野からこの盆地列を通り、鵡川の河谷に抜ける低地帯を北海道中央凹地帯と呼ぶ。

北海道東部は千島弧の延長である知床半島や阿寒の山々が、それぞれ北東-南西の山列を成しながら全体としては東西に伸びている。この北側は北見山地からなだらかな傾斜が海岸近くまで続き平野は少ないが、南側では十勝平野、根釧台地等の大平野が形成されている。

渡島半島に続く地域は、石狩湾から石狩平野、勇払平野を通って太平洋へと抜ける石狩低地帯である。ここには人口約190万を抱える札幌市や、千歳市、苫小牧市等が並び、北海道で最も人口が集中する地域となっている。渡島半島は東北日本弧内帯の延長部にあたり、石狩低地帯の西に位置する南西部山地、その南に黒松内低地帯、更に南には渡島山地がある。

北海道の主な高峰は、蝦夷山系と千島弧の会合する中央部の石狩山地(大雪山連峰、十勝岳連峰等)と、その南に続く日高山脈に集中している。最高峰は大雪山の旭岳で、その標高は2,290mである。南西部山地には「蝦夷富士」と呼ばれる羊蹄山等の山がある(北海道の山の一覧も参照のこと)。

北海道の一級水系の流域図一級水系は13水系ある。石狩川、天塩川、十勝川、釧路川、網走川、常呂川、湧別川、渚滑川、留萌川、沙流川、鵡川、尻別川、後志利別川。さんべんぼう

阿寒湖、大沼、屈斜路湖、サロマ湖、支笏湖、洞爺湖、摩周湖、ウトナイ湖、網走湖、能取湖、風蓮湖などの湖がある。

石川県

2009 年 9 月 17 日 木曜日

原始古代
県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡(灯台笹=とだしの)など、極めて少ない。続く縄文時代の遺跡では能登町の真脇遺跡や金沢市新保本町のチカモリ遺跡で、大量の木柱根が出土し話題となった。同遺跡で縄文後期の祭祀施設らしい巨木を配置したウッドサークルが見つかっている。

県域は古くは越前国の領域に含まれていたが、718年に羽咋能登鳳至珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国守に赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。また823年には越前国から加賀江沼2郡を割いて加賀国が立国され、これが令制上最後の立国となった。

奈良時代から平安時代初期には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し、現志賀町に渤海使接待のための能登客院も設置され、交易も行われた。源平の戦いでは、木曽義仲が倶利伽羅峠で四五百頭の牛の角に松明を付け、平家の陣に追い入れる「火牛の計」を用い平家をやぶり、京都に進んだ。室町時代には加賀の守護は冨樫氏、能登の守護は畠山氏であった。

中世
応仁の乱のころ浄土真宗が加賀に進出、やがて農民らによる一向一揆が守護の冨樫氏を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた所以である。本願寺は後の金沢城の位置に金沢御坊を作り、ここを拠点にして支配した。本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登を前田利家に、加賀を佐久間盛政に与えた。信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀も領して、金沢に入城した。

近世
関ヶ原の戦いで家康についた利家の息子、利長は越中全域も含め、約120万石を領する大大名となった。前田家は産業工芸に力を入れ、城下町金沢は江戸末期には人口で日本4位の都市へと発展した。江戸時代に置かれた藩は金沢藩、大聖寺藩があり、城代の置かれたものに小松城がある。

近現代
明治維新後、廃藩置県で1871年7月14日に金沢県と大聖寺県が成立した。同年11月20日に金沢県と大聖寺県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国の3郡を分けて新川県を設置、能登地方と越中国射水郡に七尾県を、加賀地方に金沢県を置いた。明けて1872年2月2日に、金沢県庁を石川郡美川町(現白山市)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。

同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓11か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し翌1873年に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。

その後、1876年に当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)、敦賀県(現福井県)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年に福井県が、1883年に富山県が、それぞれ分離して現在の県域となる。曲美